奇才-江戸絵画の冒険者たちの概要
昨年、東京都美術館で「奇想の系譜展」が開催されました。私はこの展覧会は見ておりません(^^ゞ。今回の「奇才展」はこの続編ともなる内容です。
これまで江戸絵画は、狩野派や土佐派など流派でとらえられ、流派の様式にそわない絵師たちは「異端」として、世を賑わすことはありませんでした。
転機となったのは、「奇想展」のもとにもなった美術史家・辻惟雄(つじのぶお)氏が1970年に上梓された『奇想の系譜』です。
それまでにない自由で斬新な発想をする「異端」の絵師たちを、奇想の系譜として見直そうという機運が起りました。
同書では岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳が紹介されており、「奇想展」では白隠慧鶴、鈴木其一がそれに加わりました。
「奇才展」では、絵画に装飾性を取り入れた俵屋宗達・尾形光琳、写生を重視した円山応挙なども奇想の画家に含むとしました。
従来の有名・無名の絵師たちを見直し、斬新な表現に挑んだ「奇才」の絵師たちの作品を一堂に集める試みです。
北は北海道・松前から、南は九州・長崎にいたる全国各地から知られざる奇才35人の作品が集結します。
奇才-江戸絵画の冒険者たちのみどころはここ
京
狩野山雪「寒山拾得図(かんざんじっとくず)」
狩野山雪 (かのうさんせつ 1590-1651)は、江戸時代初期の狩野派の絵師です。
千賀道元の子として肥前国(びぜんのくに 長崎県)に生まれました。
父が大坂に移ってのち、1605年に没すると、叔父の世話で京狩野初代狩野山楽(かのうさんらく)の弟子となりました。のち山楽の長女竹の婿となり、狩野性を授けられます。
48歳のとき、妙心寺天球院(みょうしんじてんきゅういん)障壁画制作にあたっては、73歳の山楽に代わって山雪が制作の中心となったと思われています。
1635年に、山楽が没すると京狩野家を継ぎ、58歳の時、東福寺の明光(みんちょう)筆「三十三観音像」の2幅を補作し、その功績により法橋(ほっきょう)となりました。
円山応挙「淀川両岸図巻(よどがわりょうがんずかん)」1765年
円山応挙(まるやまおうきょ 1733-1795)は、江戸中期の画家です。
丹波国桑田郡穴太村(くわだぐんあのうむら 現、亀岡市曽我部町穴太)で農業を営む丸山藤左衛門の次男として生まれます。10代で京都に出ました。
17歳頃、狩野探幽(かのうたんゆう)の流れをくむ画家石田幽汀(いしだゆうてい)の門人となります。
27歳頃、尾張屋勘兵衛という玩具商で、オランダ渡来の眼鏡絵(めがねえ)を見て、京都風景にアレンジしました。ここで西洋の透視図法を学んだ応挙は33歳のとき、これを応用した「淀川両岸図巻」を描きました。
55歳で一門を率いて兵庫県・大乗寺(だいじょうじ)に赴き、165面の障壁画を残しました。
応挙のもとには息子の応瑞(おうずい)、長沢蘆雪(ながさわろせつ)、呉春(ごしゅん)らの弟子が集まり、「円山派」を形成します。
曾我蕭白「唐獅子図」1764年
曾我蕭白(そが しょうはく 1730 – 1781)は、江戸時代中期の絵師です。
京都の「丹波屋(丹後屋?)」の屋号を持つ商家に吉右衛門の次男として生まれます。本姓は三浦と称しました。10代の頃より画を学び始めたようですが、師は狩野永敬(かのうえいけい)に学んだとみられる高田敬輔(たかだけいほ)説が有力です。20代後半には曾我蛇足(そがじゃそく)十世孫と称しました。
蕭白はたびたび地方を遊歴します。29歳から30歳にかけての伊勢地方を皮切りに、33歳で播州高砂へ、35歳で再び伊勢へ、38歳で再び高砂、42歳で三度伊勢を訪れます。46歳頃、ようやく京都に落ち着きました。
7歳年上の南画家池大雅(いけのたいが)と親しくしました。一方、円山応挙(まるやまおうきょ)には「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」と語ったようです。
大阪
中村芳中「公卿観楓図(くぎょうかんぷうず)」
中村芳中(なかむらほうちゅう ? -1819)は、江戸時代中期から後期の絵師です。
芳中は京都に生まれました。南画家について絵を学んだらしく、初期は南画を描いています。
その後大坂で、文人・本草学者木村兼葭堂(きむらけんかどう)との交流が知られています。また、筆のかわりに手指を使って描く指頭画(しとうが)を得意としました。
1797年頃の作品は既に琳派風であるので、尾形光琳(おがたこうりん)に私淑(ししゅく)したと考えられています。
1799年に江戸下向します。1802年に、江戸で『光琳画譜(こうりんがふ)』を刊行します。光琳の作品ではなく、芳中が描いた光琳風の作品を掲載しました。
江戸
葛飾北斎「上町祭屋台天井絵 男波(かんまちまつりやたいてんじょうえ おなみ)」
鈴木其一「紅葉狩図凧(もみじがりずだこ)」
鈴木其一(すずききいつ、1795-1858)は、江戸時代後期の絵師です。
其一は江戸中橋(現在のアーティゾン美術館周辺)に生まれ、父は近江出身の紫染め職人とされましたが、近年の研究により武士身分出身と改められました。
18歳のとき、姫路藩主酒井忠以(さかいただざね)の弟である酒井抱一(さかいほういつ)の内弟子となります。22歳のとき、酒井家の家臣で兄弟子の鈴木蜩潭(すずきれいたん)が没し、婿養子として鈴木家の家督を継ぎ酒井家家臣となりました。
其一は抱一在世中より抱一の代作をつとめたようで、初期作は抱一に酷似しています。しかし、33歳のとき、抱一が没すると其一は個性あふれる自己の画風を築きあげました。葛飾北斎同様に自らを「画狂」と称しています。
古河
河鍋暁斎「美人観蛙戯図(びじんかんあぎず)」1871年以降
河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい 1831- 1889)は、幕末から明治の浮世絵師、日本画家です。
暁斎は下総国古河(しもうさのくにこが 現在の茨城県古河市)に生まれました。
7歳のとき、歌川国芳(うたがわくによし)に入門しますが、しばらくして国芳塾を去ります。10歳のとき、狩野派の前村洞和(まえむらとうわ)に就きますが、洞和が病になり駿河台狩野の洞白陳信(とうはくのりのぶ)に入門します。
19歳で洞郁陳之(とういくのりゆき)の号をあたえられて独立。27歳で鈴木其一(すずききいつ)の次女お清と結婚し、河鍋姓を継ぎました。翌年には狩野派を離れて狂斎と号し、戯画・風刺画で人気を博しました。
40歳のとき、書画会で描いた戯画が原因で投獄され、出獄後に号を暁斎と改めます。42歳のとき、ウィーン万博ウィーン万博に大幟(おおのぼり)「神功皇后武内宿禰図(じんぐうこうごうたけのうちのすくねず)」を出品します。
以後、狩野派の本画と錦絵、戯画のジャンルを器用にこなし、建築家ジョサイア・コンドルなど外国人にも門戸を開きました。
小布施
髙井鴻山「妖怪図」
高井鴻山(たかいこうざん、1806-1883)は、江戸時代の儒学者、浮世絵師です。
鴻山は信州小布施(おぶせ)の豪商高井熊太郎の四男として生まれました。15歳で京都に遊学、儒教を摩島松南(ましましょうなん)、書を貫名海屋(ぬきなかいおく)、絵画を岸騎・岸岱(がんく・がんたい)父子、および浮世絵師三畠上龍(みはたじょうりゅう)に学びます。
その間一度小布施に戻り、21歳で結婚しました。翌年、妻を伴って再び上洛し、漢詩人の梁川星巌(やながわせいがん)に入門します。28歳で星巌とともに江戸に移住し、昌平坂学問所の佐藤一斎(さとういっさい)に経学を学びます。
35歳のとき父が没し、鴻山が当主となりました。40歳前後に葛飾北斎(かつしかほくさい)を小布施に招き、自宅に碧漪軒(へきいけん)というアトリエを建て、北斎に入門しました。その後、祭屋台天井絵(まつりやたいてんじょうえ)制作を依頼しました。
駿河
白隠「蓮池観音像(れんちかんのんぞう)」
白隠慧鶴(はくいんえかく 1686 – 1769)は、江戸中期の禅僧です。
駿州駿東郡(すんしゅうすんとうぐん)浮島・原宿(現在の静岡県沼津市原)の長澤家に三男二女の末子として生まれました。
12歳のとき出家を志し、15歳で松蔭寺の単嶺祖伝(たんれいそでん)に就いて得度し、慧鶴(えかく)と名付けられました。その後、沼津を皮切りに美濃、越前、備後、越後など各地で修行を重ね松蔭寺に帰ります。34歳で妙心寺第一座となって白隠と号し、松蔭寺住職となりました。
その名声を聞いて各地から雲水(うんすい)たちが参禅する一方で、白隠自ら甲斐、信濃、江戸、美濃に赴き説法しました。60代後半では精力的に著作を上梓し、70歳頃から背景を黒く塗り潰す絵を描きはじめます。
高知
絵金「伊達競阿国戯場 累(だてくらべおくにかぶき かさね)」
絵金(えきん 1812-1876)は、江戸時代末期から明治にかけての浮世絵師です。
絵師の金蔵略して絵金は、土佐高知城下新市町(現在の高知市はりまや町)に髪結い職人・木下専蔵の子として生まれました。本名は弘瀬金蔵。
幼少より絵を好み、16歳の頃、土佐山内家の御用絵師・池添楊斎(いけぞえようさい)に学んで画才を認められ美高(よしたか)の号を授かります。
18歳のとき楊斎の勧めで江戸へ行き、江戸の土佐山内家の御用絵師・前村洞和(まえむらとうわ 河鍋暁斎は晩年の門人)に学び、2年後洞意(とうい)の号を授かり21歳で帰国しました。家老桐間家(きりまけ)の御用絵師となり林洞意を名乗りました。
33歳のとき、贋作事件に巻き込まれ、林姓を奪われて城下を追放されます。そこで、町医者の弘瀬姓を買い取って弘瀬柳栄(ひろせりゅうえい)と名乗り町絵師となりました。その後は上方で歌舞伎芝居の絵看板などを描いたとも言われています。
40代半ばには土佐に戻り、地元の農民や漁民に頼まれ芝居絵や台提灯絵、絵馬、凧絵などを数多く描きました。
福岡
仙厓「臨済図(りんざいず)」
仙厓義梵(せんがいぎぼん 1750-1837)は、江戸時代の禅僧、画家です。
仙厓は美濃国武儀郡(みののくにむぎぐん 現在の岐阜県関市)の井藤甚八の子として生まれた。
11歳のとき、地元清泰寺で臨済宗古月派の空印円虚(くういんえんきょ)のもと得度し義梵(ぎぼん)の号を授かります。19歳から武蔵国永田(現在の横浜市南区永田)の東輝庵で月船禅慧(げっせんぜんね)について修行を積みました。
39歳のとき同門の太室玄昭(たいしつげんしょう)の勧めで博多聖福寺の盤谷紹適(ばんこくしょうてき)につきました。翌年、紹適の後を継ぎ、聖福寺住職となります。
以後、博多で後進を育て、62歳で聖福寺住職を弟子湛元(たんげん)に讓って同寺塔頭幻住庵(たっちゅうげんじゅあん)内の虚白院に隠棲しました。87歳のとき、湛元が罪を得て奄美大島へ遠島(えんとう)となったため、仙厓は再度住職となりますが、翌年病を得て没しました。
仙厓が教化の一環として絵を描き出したのがいつ頃か不明ですが、40代頃からとみられています。
鳥取・長崎
片山楊谷「竹虎図屏風(ちっこずびょうぶ)」
片山楊谷(かたやまようこく 1760-1801)は、江戸時代中期の絵師です。
楊谷は長崎で、医師洞雄山(とうゆうざん)の子として生まれました。
幼くして父が没すると13歳頃から諸国を遊歴し、17歳には鳥取の黄檗宗(おうばくしゅう)寺院興禅寺に滞在して絵を描きます。このとき、法美郡(ほうびぐん)桂木村の医師・中山東川の娘を妻とし婿養子になりました。
19歳のときには、既に5人の門人を抱えるほどの腕前でした。
33歳のとき、若桜藩主・池田定常(いけださだつね)に絵を気に入られ、鳥取藩士で茶道役の片山家が夫婦ともに養子としました。
35歳のとき、湯治(とうじ)のため京都に行き、画家として知られるようになりました。41歳で但馬の山路寺で多くの障壁画を描きました。しかし、翌年但馬の湯村温泉で入浴中急死します。
楊谷の画風は清の商人・画家費漢源(ひかんげん)に近く、清の画家・沈南蘋(しんなんびん)や他の長崎派の画風にも影響するを受けたことが認められます。特に虎の絵は、虎の毛を細い線で丹念に表し「楊谷の毛描き」と呼ばていれます。
奇才-江戸絵画の冒険者たちの音声ガイドは花江夏樹さん
音声ガイドはのナビゲーターは声優の花江夏樹(はなえなつき)さんです。
古美術商人に扮し、絵の技法や見どこ説、絵師の人生ストーリーに迫ります。
「絵師のバックボーンとか、どういう経緯で描かれたかを知ることによって、より興味が湧いたり、発見があると思います。」と花江さん。
貸出料金 = お一人様1台600円(税込み)
収録時間 = 約40分
奇才-江戸絵画の冒険者たちのインスタ映えスポットはここ
江戸東京博物館です。ロビーに絵金「伊達競阿国戯場 累」のセットがありました。
奇才-江戸絵画の冒険者たちのグッズがかわいすぎる
奇才-江戸絵画の冒険者たちの図録はここがすごい
奇才-江戸絵画の冒険者たちの混雑状況はここをみる
山口展
指定の時間枠の最初は混みあいます。
大阪展
混雑状況は、美術館や展覧会のツイッターに掲載されます。
災害などによる臨時休館や、イベント情報などリアルタイムで分かります。
奇才 ー江戸絵画の冒険者たちー【大阪】の公式アカウント
奇才-江戸絵画の冒険者たちの割引はいろいろある
大阪展
ミュージアムぐるっとパス・関西2020
関西エリアの美術館・博物館等59施設、隣接エリア59施設の入場券・割引券が1冊にまとまったチケットブックです。
あべのハルカス美術館で購入し、そのまま使うことができます。
あべのハルカス美術館は団体料金、200円割引になります。
各施設指定の展示を半券1枚につき1回利用できます。
販売期間 は、2020年1月31日(金)までです。
プレミアム版
有効期間は、最初に利用した日から6ヶ月間です。
価格=2,000円(大人料金のみ)
普及版
有効期間は、最初に利用した日から3ヶ月間です。
価格=1,100円(大人料金のみ)
お問い合わせ
「ミュージアムぐるっとパス・関西2020」実行委員会事務局
Tel. 06-6444-2364
Fax. 06-6444-2365
(10:00 ~17:00 土・日・祝日を除く)
奇才-江戸絵画の冒険者たちのチケットはいくら?
山口展
観覧料
一般1,400円/ シニア・学生1,200円/ 18歳以下無料
※シニアは70歳以上の方
※高等学校、中等教育学校、特別支援学校に在籍の方等は無料。
※障害者手帳等をご持参の方とその介護の方1名は無料。
※前売り券および団体割引券の販売はありません。
事前予約(日時指定)による定員制となります。
詳細はこちら(山口展事前予約ページ)
大阪展
前売・団体
一般 1,200円/ 大高生800円/ 小中生 300円
当日
一般 1,400円/ 大高生1,00円/ 小中生 500円
※団体は15名様以上。
※前売券は7月4日(土)~9月11日(金)までプレイガイドなどで販売。
※障がい者手帳をお持ちの方は、美術館チケットカウンターで購入されたご本人と付き添いの方1名まで当日料金の半額。
奇才-江戸絵画の冒険者たちの巡回先はここ
山口展 2020年7月7日(火)~8月30日(日)
山口県立美術館
〒753-0089 山口県山口市亀山町3-1
開館時間
9:00~17:00(入館は16:00まで)
※ただし、8月22日、23日、29日、30日は9:00〜18:00(入館は17:00まで)
休館日
月曜日
※8月10日(祝日)は開館
Tel.083-925-7788
Fax. 083-925-7790
大阪展 2020年9月12日(土)~11月8日(日)
あべのハルカス美術館
〒545-6016 大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス16階
開館時間
火~金/10時~20時、月土日祝/10時~18時
※入館は閉館30分前まで
休館日
9月28日(月)、10月12日(月)、26日(月)
アクセス
最寄駅
○近鉄「大阪阿部野橋」駅 西改札
近鉄「大阪阿部野橋」駅からシャトルエレベーターまでは約3分です。
1.西改札を出て、右側へと進みます。左側にエスカレーターが出てきますので、地下1階へと下ってください。そのまま、真っすぐ進んでいただくと、前方に美術館フロアへとつながるシャトルエレベーターがありますので、16階へと上がってください。
○JR「天王寺」駅 中央改札
JR「天王寺」駅からシャトルエレベーターまでは約3分です。
1.中央改札を出て、左側におすすみください。
2.階段とエスカレーターがありますので、地下1階へ降りてください。
3.地下鉄御堂筋線「天王寺」駅(西改札)を左側にして、まっすぐお進みいただくと、右斜め前に シャトルエレベーターがありますので、16階へと上がってください。
○地下鉄御堂筋線「天王寺」駅 西改札
地下鉄御堂筋線「天王寺」駅からシャトルエレベーターまでは約2分です。
1.御堂筋線「天王寺」駅西改札を出て、左側へ進みます。右斜め前に シャトルエレベーターがありますので、16階へと上がってください。
シャトルエレベーターは阿倍野歩道橋から繋がるあべのハルカス2階北西角入口からもご利用いただけます。
○地下鉄谷町線「天王寺」駅 南西/南東改札
○阪堺上町線「天王寺駅前」駅 よりすぐ
お問い合わせ
Tel.06-4399-9050
10:00 ~18:00
※展覧会開催中の火~金(祝日を除く)10:00 ~20:00