きたれ、バウハウスの概要
バウハウスはドイツ語で「建築の家」を意味します。
1919年、ドイツのヴァイマールに、ヴァルター・グロピウスにより造形学校「バウハウス」が開校されました。2019年は、それから100年目にあたります。
ナチスにより1933年に閉校されるまでの14年という短い間でしたが、芸術やデザインに大きな影響をあたえました。
バウハウスには、ヴァシリー・カンディンスキー、パウル・クレーなどの芸術家たちが教師として招聘されました。入学した学生が最初に受ける基礎教育で教師たちが試みた授業は独特なものでした。その記録や提出された課題が数多く残されています。
展覧会では、バウハウスの基礎教育を中心に各教師の授業内容の紹介と、そこから発展した様々な工房での成果など、約300点が展示されます。
また、実際にバウハスに入学した、日本人留学生4名の活動も初めて紹介されます。
ヴァルター・グロピウス(1883-1969)は、ドイツの建築家です。
在籍期間:1919-28 指導: 家具工房(1921-25: 造形マイスター)学長: 1919-28
きたれ、バウハウスの見どころはここ
学校としてのバウハウス
1919年の「ヴァイマール国立バウハウス設立宣言」は、ドイツ系のアメリカ人画家リオネル・ファイニンガー(1871-1956)による木版画がとびらです。
文 : ヴァルター・グロピウス / 挿画 : リオネル・ファイニンガー 『バウハウス宣言』 1919年
大聖堂は中世の建築職人組合のシンボルを、3つの星は建築家・画家・彫刻家を表わしており「社会主義の大聖堂」「未来の大聖堂」と呼ばれています。
続くグロピウスによる宣言文は「すべての造形活動の最終目標は建築である」という言葉から始まり、バウハウスのあるべき姿を述べています。
1922年に制作された教育過程を示す円形の図は、半年間の「予備教育」、3年間の「工房教育」と試験終了後、最終目標としての「建築教育」と3段階で構成されています。
ヴァルター・グロピウス『学校便覧 : 教師と教育カリキュラム』1922年
ヴァイマール国立バウハウスは、ベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957)が私設の「工芸ゼミナール」から発展させ、その校舎までも設計した「ザクセン大公立工芸大学」と、近隣にあった「ザクセン大公立美術大学」の校舎を合併して誕生しました。
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ《旧ザクセン大公立工芸大学》1911年
カルル・アレクサンダー《旧ザクセン大公立美術大学》1860年 / 改築 : アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ 1904年
ヴェルデはドイツを去ることになりますが、後任にファグス靴型工場などで注目されていた建築家ヴァルター・グロピウスを推薦していました。
ヴァルター・グロピウス/アドルフ・マイヤー《ファグス靴型工場》1911年
1923年にバウハウスの教育の成果を示す「バウハウス展」が開催されます。
展覧会の目玉として、ヴァイマール郊外のアム・ホルンに、画家ゲオルク・ムッヘ(1895 – 1987)の設計案とグロピウスの建築事務所のプランに従って実験住宅《ハウス・アム・ホルン》が建てられました。
ゲオルク・ムッヘ《ハウス・アム・ホルン》1923年
展覧会には、1ヵ月半の期間中に世界中から15,000人の来場者が押し寄せ、バウハウスは世界的に注目される存在になります。
1925年にデッサウ市がバウハウスを招致をし、市立の造形大学としてバウハウスは再出発しました。
1926年末にはグロピウス設計による次の校舎として、バウハウス・デッサウ校舎が竣工します。
ヴァルター・グロピウス《バウハウス・デッサウ校舎》1926年
デッサウでは、学校としての存在を広く伝えるために出版活動に力を注ぎました。建築・デザイン・芸術の先端的な動きに焦点を当てる「バウハウス叢書(そうしょ)」シリーズの刊行が開始されます。
テオ・ファン・ドゥースブルフ『新造形芸術の基本概念』バウハウス叢書6巻 1925年
また、バウハウス・デッサウ校舎の竣工に合わせて機関誌『バウハウス』も刊行されました。
編集:ヴァルター・グロピウス、ラースロー・モホイ=ナジ 機関誌『バウハウス』第1巻第1号 1926年
バウハウスでは平均して120~200人の学生が常に国際的に編成された教授陣のもとで学び、そのうちの50%までが女性、25%が外国人でした。
ピウス・パール《ミース・ファン・デル・ローエと学生たち》1930/31年
1932年政治状況の急変により、バウハウスはデッサウを追われます。
ベルリンの空き家になっていた電話工場で私立学校として再開されましたが、ナチス政権の弾圧を受け1933年の夏に閉鎖されました。
バウハウスの教育
「予備教育」では、入学した学生の観察力と表現力を育て、彼らの芸術や美術に関する既成概念や先入観を払拭し、それぞれの創造力を引き出します。
また、「工房教育」への準備期間として、様々な素材、対象の性質や構造を把握する能力、対象を見て分析し表現する能力など、造形原理の基礎的な理解へと導くための教育がなされました。
「予備教育」は、ヨハネス・イッテンによって考案されました。自然研究、素材研究、様々な素材による立体構成などからなる教育内容は、1923年に彼がバウハウスを去った後、ラースロー・モホイ=ナジやヨゼフ・アルバースに引き継がれ、さらに独自に発展していきました。
イッテンの授業 1919-23
指導: 予備課程(1919-23)、金属工房(1920-23:造形マイスター)、彫刻工房(1920-22: 造形マイスター)
ヨハネス・イッテン(1888-1967) スイスの芸術家、理論家、教育者です。
バウハウスに招聘されたとき、すでにウィーンで美術教育に携わっており、初期のマイスターの中で唯一の教育経験者でした。
かつて小学校の教師だった彼は、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソー、スイスの教育実践家ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ、ドイツの教育学者フリードリヒ・フレーベル、イタリアの女性医師マリア・モンテッソーリらの教育改革運動の思想から学んでいました。
フランツ・ジィンガー《男性の裸身》1919年
モホイ=ナジの授業 1923-28
所属: 予備・基礎課程(主任)、金属工房(造形マイスター)
ラースロー・モホイ=ナジ(1895-1946)は、ハンガリー出身の写真家、画家、タイポグラファー、 美術教育家です。
イッテンが去った後、1923年に金属工房のマイスターとして招かれました。並行して、アルバースとともに予備課程を受け持ちます。アルバースの工作教程に対し、主に形態についての理論と実習を担当しました。
「バランスの習作」と呼ばれる実習は、木や金属、ガラス、鉄線といった簡素な材料を組み合わせることで、バランスのとれた構成を組み立てるという課題です。
作者不詳《バランスの習作》デザイン :1924-25年頃、再制作 :1995年
アルバースの授業 1920-33
所属: ガラス画工房、壁画工房
指導: 基礎課程(1923-: 1925からユングマイスター、28から主任)、ガラス画工房(1923-25非公式)、家具工房(1928-29)
ヨゼフ・アルバース(1888-1976)は、ドイツの美術家です。
1920年にバウハウスに学生として入学しましたが、1922年から予備過程の指導を始めます。
翌1923年からは、新任のモホイ=ナジとともに正式に予備課程を担当しますが、モホリ=ナギの去った1928年以降はひとりで教えることになりました。
アルバースの授業で特に重視されたのは、与えられた材料を徹底的に研究することでした。可能な限り素材の特性を活かし、無駄なく利用するとが要求されました。
「空間の習作」は、彼の授業のなかで、最もよく知られる予備課程の課題に、紙を折り曲げたり、切ったりして行う素材演習がありました。
作者不詳《紙による素材演習》制作年不詳、再制作 :1997年
クレーの授業 1921-31
指導: 製本工房(1921-22: 造形マイスター)、ガラス画工房(1922-24:
造形マイスター)、基礎教育(1921-31)、自由絵画クラス(1927-31)
パウル・クレー(1879-1940)は、スイスの画家、美術理論家です。
イッテン、アルバースの予備課程を終えた学生に、造形論の講義をおこない、形態と色彩について教えました。
彼は膨大な量の講義ノートを残しており、それによって授業の詳細を知ることができます。
造形を「運動」と「成長」という観点から説明する独特なもので、線から面、空間そして構造から運動(螺旋や矢印)へと講義は進みました。
カール=ヘルマン・ハウプト《図形のスタディ》1923年
カンディンスキーの授業 1922-33
指導: 基礎教育(1922-33)、壁画工房(1922-25: 造形マイスター、主
任)、自由絵画クラス(1927-33)
ヴァシリー・カンディンスキー(1866-1944)は、ロシアの画家、美術理論家です。
1922年にバウハウスに招聘され、イッテン、アルバース、モホイ=ナジの基礎教育を補完する役割を果たしました。
1912年に彼は『芸術における精神的なものについて』(和書:
『抽象芸術論―芸術における精神的なもの』美術出版社 1958年)で、ある色彩がどのような性格を持ち、どのような形態で効果を上げるかといった問題について述べました。
バウハウスでは「抽象的形態の要素」をテーマに、形態と色彩を結びつきを。「分析的デッサン」をテーマに、正確に対象を見ることと構成的に絵をまとめることを講義しました。
エーリッヒ・ムロツェック《色彩演習》1929/30年
シュレンマーの授業 1921-29
所属: 壁画工房(1921-22: 造形マイスター)、金属工房(1922-23: 造形マイスター)、彫刻工房(1921-25: 造形マイスター)、舞台工房(1923-29: 主任)
オスカー・シュレンマー(1888-1943)は、ドイツの芸術家、彫刻家、デザイナーです。
舞台工房のマイスターとして知られています。1921年にバウハウスに招聘され、壁画工房を担当するかたわら、予備課程でヌードデッサンの授業も行いました。
彫刻家としてのシュレンマーは、バウハウス着任の前から人間のイメージをテーマに作品を制作しており、人の身体を描く講座は彼に適したものでした。
彼はこの授業をきっかけに1922年に、人間をあらゆる角度から分析し考察する「人間」という授業を構想し始めます。
1927年に、ヌードデッサンに人体の形態や機能の分析を加えた「人体デッサン」の授業へと展開します。
1928年に、人体の動きや組成を分析し、思考や感情に潜む原理を捉え直した画期的な人間工学的授業「人間」を行ないました。
カール・シールツェック《裸体素描1学期》1929年
シュミットの授業 1919-32
所属: 彫刻工房
指導: 基礎教育(1925-32: ユングマイスター)、彫刻工房(1925-30: ユングマイスター、主任)、印刷・広告工房(1928-32: ユングマイスター、主任)
ヨースト・シュミット(1893-1948)は、ドイツの印刷技術者、彫刻家です。
彫刻工房に学んだ学生でしたが、学内のポスターコンペに応募した《1923年の「バウハウス展」のポスター》が評価されるなど、グラフィックデザインでも才能を覗かせていました。
1925年からはユングマイスターに抜擢され、彫刻工房を任されるとともに、予備課程の必修科目となったレタリングの授業を担当します。
バウハウスでは、装飾性を排除したシンプルな書体デザインが追求されました。シュミットは、円と円弧、直線の組み合わせによる文字を体系的に学ぶ方法を開発しました。
アルトゥール・シュミット《レタリング》1929年頃
バウハウスの色彩論
バウハウスの学生ルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マックは、入学前にアドルフ・ヘルツェルの色彩論を学んでおり、学内で非公式の「色彩ゼミナール」を開いて色彩の研究を重ねます。
そこから、回転混色現象を理解するための混色独楽が開発され、バウハウスの製品のひとつとして生産販売されました。
ルートヴィヒ・ヒルシュフェルト=マック 《混色独楽》 デザイン1923年、ネフ社 : プロダクトモデル1989年
工房教育と成果
バウハウスの工房では、ドイツの伝統的なマイスター制度にならって、教師は「マイスター(親方)」、学生は、「レーリング(徒弟)」、職人試験に合格すると「ゲゼレ(職人)」と呼ばれました。
ヴァイマール期、工房での教育体制は「造形マイスター(Formmeister)」と「技術マイスター(Handwerkmeister)」による一工房二人マイスター制が採用されていました。
これまで工房で制作された作品を公開するために、1923年「バウハウス展」が開催されます。
バウハウスの工房は、学校としての教育実践の場であり、時代にふさわしいデザインを産み出す実験場でもありました。
デッサウ期になると、当初の工房教育の中から、造形的な能力と手工作技術を兼ね備えた卒業生たちが「ユングマイスター(若親方)」として指導陣に加わり、二人教員制は廃止されます。
家具工房 1920-33
1925年から、家具工房はユングマイスターとなった、マルセル・ブロイヤーに任されることになりました。
彼は自転車のフレームにヒントを得て、鋼管を用いた画期的な肘掛け椅子「ヴァシリー・チェア」を制作します。金属という新たな素材の導入は、家具デザインに革新をもたらしました。
デッサウ期には、居住空間を目的に合わせて、合理的に利用できるような家具デザインが求められました。様々なユニット式家具や折畳式の家具が考案され、企業による商業化の生産ラインにも乗ることになりました。
マルセル・ブロイヤー《クラブ・アームチェアB3(ヴァシリー)》デザイン :1925年
製造、スタンダードメーベル社 :1928/29年頃
金属工房 1920-32
1923年になると、金属工房はモホイ=ナジが造形マイスターになり、工場生産を目指した新たな素材の選択と形態の理念が導入され、目覚ましい展開を見せました。
円や半円、球体などを組み合わせたシンプルで幾何学的なデザインは、金属工房で生まれた生活用具に特徴的なもので、バウハウスのデザインを象徴するものとなります。
マリアンネ・ブラント《ティーセット》1925年頃
陶器工房 1919-25
陶器工房は制作のために必要な設備と資材調達の都合から、ヴァイマールから 北に約30km離れたドルンブルクに置かれました。テューリンゲンの陶芸製造の伝統がある小都市です。
そこに自らの窯場(かまば)を持つ陶芸家のマックス・クレハンが技術マイスターに招聘され、これに伴って陶器工房はドルンブルク宮殿の厩舎(きゅうしゃ)と廷臣(ていしん)宿舎に置かれることになります。
1923年の「バウハウス展」で、実験住宅のための台所用食器が注目を集めましたが、ヴァイマールのバウハウス閉校とともに閉鎖されました。
ゲアハルト・マルクス、マックス・クレハン《水差し》1920-23年
織物工房 1919-33
ヴァイマール期の織物工房は、1919年の秋に活動を始めました。造形マイスターとして画家のゲオルク・ムッヘが着任するのは1921年になります。
直接的な担当ではなありませんでしたが、クレー、カンディンスキー、モホイ=ナジたちは織物工房に造形的、芸術的な面で影響をあたえました。
ヴァイマール期の工房では、一品生産的なデザインや制作が多くありましたが、1923年の「バウハウス展」で示された工業との連携を視野に入れて、ムッヘは機械化への方向性を図りました。
デッサウ期には、レーヨンやセロファンなど当時の新素材を用いた織物の実験と機械織のために、プロトタイプをデザインすることが盛んに行われるようになります。
グンタ・シュテルツル《テキスタイルのデザイン》1929年頃
壁画工房 1920-33
1922年にカンディンスキーが招聘され、壁画工房の担当になると活動も本格化しました。彼は建築の基本要素である壁面を、色彩論を生かした造形の場と捉えていました。
ヴァイマール期、壁画工房は外部からの仕事の依頼がほとんどない状況が続き、成長を見せることはありませんでした。
デッサウ期に入ると、1925年、壁画工房で学んでいたヒネルク・シェーパーが、ユングマイスターになり壁画工房を担当することになりました。
彼は建築における色彩は、建築をその形態的構造のなかで補助すべきものであって、建築に競合してはならないと考えました。
建築の壁面を、色彩と素材の風合いの壁紙で構成するという発想から生まれた「バウハウス壁紙」は、壁画工房から生まれた成果でした。
ヘルベルト・バイヤー《展覧会パビリオン案》デザイン 1924年、セカンドヴァージョン 1966年
彫刻工房
ヴァイマールの初期、彫刻工房は素材の違いにより石彫と木彫の二部門に分かれていました。
イッテンが前者の、ムッヘが後者の造形マイスターを務めた後、1922年にオスカー・シュレンマーが両工房の造形マイスターとなり統合されました。
1919年に入学し、木彫工房に進んだヨースト・シュミットは、イッテン、シュレンマーの指導の下で頭角を現し、ゾマーフェルト邸の木彫装飾を手がけました。
ゾマーフェルト邸は、1920年にグロピウスが外部注文に応じて設計した、バウハウスの各工房が参加して作った最初の作品です。
シュミットは、デッサウ期の1925年に、バウハウス生え抜きのユングマイスターとなり彫刻工房を任されました。
ヨースト・シュミット《ゾマーフェルト邸の木彫装飾》1921年
印刷・広告工房 1924-32
ヴァイマール期の1923年にモホイ=ナジがマイスターとして着任します。文字と図版を、鉛活字による組版と写真製版を用いて複製することは、彼の表現と一致しするものでした。
彼はバウハウスの広告や出版物に、新しいタイポグラフィやレイアウトを導入しました。
壁画工房に学んでいたデザイナーのヘルベルト・バイヤーが頭角を現し、1923年の「バウハウス展」のカタログ『ヴァイマール国立バウハウス1919-1923』の表紙をデザインしました。
バイヤーは新しいタイポグラフィーの形と素材を、広告における効果から検証しました。
ヨースト・シュミット『デッサウ市の案内パンフレット』1930年
版画工房 1919-25
版画工房は他の工房と異なり、当初は学生や職人の教育は目的とはせず、版画を制作する工房でした。印刷機などの機材は、前身のザクセン大公立美術大学に設置されていたものを利用しました。
そのため、教育と外部からの印刷の注文を受けて生産経営を行う、バウハウスで最初の工房となりました。
1921年に造形マイスターとして、「バウハウス宣言」の挿絵を描いた画家のリオネル・ファイニンガーが着任すると、小規模ながらも教育工房的な傾向をみせました。
パウル・クレー ホフマン風の情景《新西欧版画集》第1集・バウハウス・マイスター篇・6 1921年
舞台工房 1921-29
舞台工房は、当時の他の美術学校には例を見ない、バウハウス独自の工房でした。
グロピウスは、造形創造の全分野にわたる工房作業には、劇場問題と向き合うことも必要だと考えました。
1923年に、それまで指導していたローター・シュライヤーに代わり、基礎教育で教えていたオスカー・シュレンマーが着任し、バウハウスの舞台の本格的な活動が始まります。
1923年の「バウハウス展」開催中のバウハウス週間に、シュレンマーの代表作となる「三つ組のバレエ(トリアディック・バレエ)」が上演されました。
踊り手の身体を覆うユニークなコスチュームと、機械的な振り付けによる舞台は関心を集め、バウハウスの舞台の存在を広めました。
アレクサンダー(クサンティ)・シャヴィンスキー「サーカス」1924年頃
建築科 1927-33
バウハウスにとって、教育の最終目標の「建築」の部門の設置は、しばらくなされませんでした。しかし、ヴァイマール期に建築への取り組みは始まっていました。
1923年の「バウハウス展」には、アム・ホルンに実験住宅が建設されました。
デッサウ期には、バウハウス・デッサウ校舎(1925-26)、バウハウスのマイスターのための住宅(1925-26)をはじめ、グロピウス自身の設計となる建築が次々とデッサウ市内に建設されました。
これらの建築は、バウハウスの理念を具現化したものであり、その存在を国際的に広く知らしめることになりました。
1927年になり、グロピウスはスイス人建築家ハンネス・マイアーを招聘し、建築科を設置しました。
ルドルフ=フランツ・ハルトフ『建築図面』1923年
「総合」の位相
グロピウスは、工芸家と芸術家の隔りを取り除き、建築・彫刻・絵画の全ての活動をひとつにするという展望のもとに、独自の教育課程を実践しました。
1920年代のドイツは、技術の進展ともに工業化社会が拡大し始めます。芸術と産業の関係、また教育と生産の関係は、バウハウス創設時からの課題でした。
グロピウスはこれに関して、1923年の「バウハウス展」で、両者を対立的に捉えるのではなく、積極的に結びつけるという新たな指針を「芸術と技術一新たな統一」として講演で述べました。
1923年のバウハウス展
1923年8月15日から9月30日まで、バウハウス最初の大規模な展覧会が開催されました。マイスターや生徒たちは絵画の展示を州立博物館で行ない、授業や工房で作られた作品の展示はヴァイマールの校舎でなされました。
展覧会と並び建設された実験住宅は、バウハウスにとって重要な意味を持っていました。
当初から目標とされた「建築」への強い志向を、建築の工業化という新たな展望の下で具体的に示し、バウハウスの教育の指針を明確にしました。
また、この住宅の室内空間には、バウハウスの諸工房が制作した家具・調度類が配置されており、建築の下での総合という理念にしたがう工房教育の成果として提示されました。
ヨースト・シュミット《1923年の「バウハウス展」のポスター》1923年
バウハウスの写真
写真は当初の教育課程にはありませんでしたが、1923年以降、新たな表現の可能性を持つメディアとして、教師も学生も注目し「バウハウスの写真」として、学外からも注目されるようになりました。
写真を広めたのはモホイ=ナジでした。彼は、構成主義者として早くから芸術と技術の関係を意識し、技術的なメディアの芸術的な可能性に注目していました。グロピウスが提唱した「芸術と技術一新たな統一」という新たな展望の理解者であり推進者でもありました。
ヴァルター・ペーターハンス《卵が浮かんだ静物》1930年
バウハウスの日本人学生
バウハウスの存在と活動は、日本ではデッサウに移転した1925年頃から雑誌などで紹介され、当時の日本の知識人 なかでも建築や美術に関心を持つ人々に注目されました。
そして、日本からもバウハウスへの入学者が現れました。デッサウ期のバウハウスから、ベルリンに移転したバウハウス最後の時期まで、合わせて4人の日本人がバウハウスの学生となりました。
水谷武彦
水谷武彦(1898-1969年)は、東京美術学校(現、東京藝術大学)の助教授でした。文部省の留学生としてドイツ滞在中、1927年にベルリンのデザイン学校、ライマン・シューレにからバウハウス・デッサウに転校しました。
1927-29年、モホイ=ナジとヨゼフ・アルバースの基礎課程、ブロイヤーの家具工房、ハンネス・マイヤーの建築科で学びました。
水谷武彦(絵画023)制作年不詳
山脇巌
山脇巌(1898-1987年)は建築家で、東京美術学校を卒業した妻山脇道子(1910-2000年)とともに、1930年から入学しました。
ヨゼフ・アルバースの予備クラスやカンディンスキー、ヨースト・シュミットらの授業を受講し、建築科ではミース・ファン・デル・ローエに学びました。また在学中、独自に写真やフォトモンタージュも制作しました。
山脇巌 山脇巌執筆「住居仕事場」『新建築』1935年8月号掲載 1935年
山脇道子
山脇道子は、山脇家に養子入りした藤田巌と結婚します。1930-32年、巌とバウハウス・デッサウに在学し、ヨゼフ・アルバースの予備クラス、カンディンスキー、ヨースト・シュミットの授業を受講します。織物工房に在籍し、シュテルツル、ライヒ、ベルガー、アンニ・アルバースのもとで学びました。
山脇道子《テキスタイルのサンプル》1931年
大野玉枝
大野玉枝(1903-1987年)は、夫のドイツ文学者大野俊一と1931年から渡欧し、1年ほどパリに滞在してベルリンに移りました。
山脇夫妻が大野夫妻のアパートを訪ねるなど交流があり、バウハウスの情報を得たと思われます。33年バウハウス・ベルリンに入学し、織物を学びました。
大野玉技《带(作り帯)》制作年不群
きたれ、バウハウスのインスタ映えスポットはここ
西宮市大谷記念美術館です。エントランス、ロビーのほか、展示室内の体験コーナーでは撮影ができました。
きたれ、バウハウスのグッズがおしゃれすぎる
グッズは右上から時計回りに
図録
ペーパーウエイト
『バウハウスの舞台』バウハウス叢書4巻
デッサウ市の案内パンフレット
『デッサウのバウハウス建築』バウハウス叢書12巻
ポストカード
ココアポット
「バウハウス展」絵葉書
1923年のバウハウス展ポスター
サコッシュ
A4クリアファイル
デッサウ市の案内パンフレット
バウハウス測量野帳
ブロックメモ
デッサウ市の案内パンフレット
【バウハウス展グッズ】
企画展「きたれ、バウハウス」では展覧会オリジナルグッズがございます!会場限定です!
図録/ポストカード/クリアファイル/サコッシュ/測量野帳/ブロックメモ/ペーパーウェイト
一番人気はサコッシュ。展示と合わせてグッズも見逃せませんよ〜! pic.twitter.com/mHitzoVyG9— 新潟市美術館ミュージアムショップ ルルル (@lululu_niigata) August 4, 2019
きたれ、バウハウスの図録はここがすごい
『開校100年 きたれ、バウハウス ー造形教育の基礎ー』
A4の短辺より少し大きめの正方形です。モノクロ148ページ、カラー116ページ。モノクロページが多いのは論集、翻訳集、資料編に多くを割いているからです。
論集は、
「バウハウス設立のミステリー」
「バウハウス一普遍性と全体性への渇望・あるいは新たな貧困一」
「オスカー・シュレンマーの《三つ組のバレエ》とバウハウス」
など14本。
翻訳集は、
ヴァルター・グロピウス「バウハウス宣言ヴァイマール国立バウハウスの基本計画」
ラースロー・モホイ=ナジ「写真は光の造形である」
など3本が掲載されています。
「ただ理念のみが、これほども広く伝播するだけの力を持っていたのである。」
と、第3代校長を務めたルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886 – 1969)が述べています。
作品だけでは伝えきれない部分を、論集や翻訳集が補完しています。
ソフトカバー/220 × 220mm/モノクロ・カラー/264ページ
価格=2,340円(税込)
きたれ、バウハウスのチケットはいくら?
高松市美術館
当日券
一般 1,000円/ 大学生 500円/ 高校生以下無料
前売り券・団体券
一般 800円/ 大学生 400円/ 高校生以下無料
※65歳以上も一般料金 ※団体料金は20名以上
※身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳所持者は入場無料
※前売チケットは美術館1階受付、高松市役所生協、ゆめタウン高松サービスカウンター、宮脇書店本店及び南本店にて2月7日(金)まで販売
※共通定期観覧券は、高松市美術館及び高松市塩江美術館主催の展覧会を、 購入日から1年間何度でも鑑賞できます。
販売場所:高松市美術館1階受付及び高松市塩江美術館
販売価格:1枚3,000円(65歳以上 1枚1,500円)
静岡県立美術館
当日券
一般 1,000円/ 70歳以上 500円/ 大学生以下無料
前売り券・団体券
一般 800円/ 70歳以上 400円/ 大学生以下無料
※収蔵品展、ロダン館も併せてご覧いただけます。
※団体のお申込/20名以上の団体のお申込は、美術館総務課へお問合わせください。学生の団体を引率の場合、引率の先生は無料になる場合があります。詳しくは美術館まで。
※身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている方と付添者1名は、企画展、収蔵品展とも無料でご覧いただけます。専用駐車場のほか、車椅子も完備しております。美術館総務課までお問合わせください。
東京ステーションギャラリー
未定
きたれ、バウハウスの巡回先はここ
高松市美術館 2月8日(土)~3月22日(日)
〒760-0027香川県高松市紺屋町10-4
アクセス
電車
○JR「高松」駅から 徒歩 約15分 中央通りを南へ
○ことでん「片原町」駅から 徒歩 片原町商店街、丸亀町商店街を約10分
バス
○JR「高松」駅から ショッピング・レインボー循環バス西廻り 「紺屋町」下車 徒歩約3分
○JR「高松」駅から 東方面下り、南方面下りほか(通勤特急など除く)「紺屋町」下車 徒歩約3分
○JR「高松」駅から まちバス「丸亀町参番街」下車 徒歩約3分
高速バス
「県庁通り」下車 徒歩 約8分 中央通りを北へ
開館時間
9:30~17:00
※展覧会場入室は閉館時間の30分前まで
※特別展開催期間中の月~土・祝は19:00まで
休館日
月曜日(祝休日の場合は翌日)
お問い合せ
Tel.087-823-1711
Fax. 087-851-7250
静岡県立美術館 4月11日(土)~5月31日(日)
〒422-8002 静岡市駿河区谷田53-2
アクセス
電車
○JR東海道線「草薙」駅県大・美術館口から、徒歩約25分またはバス約6分
○静岡鉄道「県立美術館前」駅南口から、徒歩15分またはバス約3分
バス
いずれも「県立美術館」バス停下車
○JR「草薙」駅県大・美術館口(南口)から、草薙美術館線県立美術館行き。約6分、大人100円
○JR「静岡」駅北口11番のりばから、県立美術館線県立美術館行き。約30分、大人360円
○静鉄「県立美術館前」駅下車、「静鉄美術館駅前」バス停より、草薙美術館線県立美術館行き。約3分、大人100円
※開館時間中は各路線1時間間隔で運行
開館時間
10:00~17:30
※展示室への入室は17:00まで
休館日
毎週月曜日(祝日・振替休日の場合は翌日)
お問い合せ
Tel. 054-263-5755
Fax. 054-263-5767
東京ステーションギャラリー 7月17日(金)~9月6日(日)
〒100-0005 東京都千代田区丸の内1-9-1
アクセス
○JR「東京」駅
JR東京駅 丸の内北口 改札前
○東京メトロ丸の内線「東京」駅(約3分)
1. 中央改札を丸の内北口方面側に出て、M12出口へ向かう
2. M12出口の階段を上がり地上へ
3. 正面にあるJR東京駅丸の内北口ドームの中へ入ると左手に当館入口があります
○東京メトロ東西線「大手町」駅(約5分)
1. 東改札をB4,B5出口方面へ出て、階段(エスカレーター)を上がり直進
2. そのままJR東京駅方面の地下通路を直進、M12出口へ向かう
3. M12出口の階段を上がり地上へ
4. 正面にあるJR東京駅丸の内北口ドームの中へ入ると左手に当館入口があります
○東京メトロ千代田線「二重橋前」駅(約7分)
1. JR東京駅方面改札を出て、出口7の階段を上がる
2. 行幸地下ギャラリーを通りぬけ左折、M12出口へ向かう
3. M12出口の階段を上がり地上へ
4. 正面にあるJR東京駅丸の内北口ドームの中へ入ると左手に当館入口があります
開館時間
10:00 – 18:00
金曜日 10:00 – 20:00
※入館は閉館30分前まで
休館日
月曜日(祝日の場合は翌平日/ただし会期最終週、ゴールデンウィーク・お盆期間中の月曜日は開館)
お問い合せ
Tel. 03-3212-2485